寄稿がBAN!②
この記事では寄稿がBAN!①で述べさせて頂いた出来事について、
・自分の書いた文章はBANされて当然だったのか
・学校側の対応は妥当だったのか
この2点について宗教と表現の自由が絡んだ過去の事件を調べ、自分の意見を述べさせて頂く。
CASE.1 悪魔の詩翻訳者殺人事件
この事件は1988年、イギリスにて「悪魔の詩」という小説が発行されたことから始まる。この小説はイスラムの預言者ムハンマドの多神教に対する考え方を揶揄した部分があったり、ムハンマドの妻と同名の売春婦を登場させたり、などイギリス国内にとどまらず世界中のムスリムから反感を買うような内容となっていた。
そして1989年2月、当時のイランの最高指導者であったホメイニ師により「悪魔の詩」の作者をはじめとする発行に関与した者全員の死刑が宣告された。
その死刑宣告の後、イスラム教徒の暗殺者が世界各地に散らばり、1991年7月、悪魔の詩のイタリア語翻訳者がミラノで襲われた一週間後、筑波大学にて日本語翻訳者である五十嵐一氏が殺害されるという事件が起こった。 ちなみに2019年現在、この事件は未解決である。
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/%E6%82%AA%E9%AD%94%E3%81%AE%E8%A9%A9
CASE.2 シャルリー・エブド襲撃事件
2015年1月、以前からイスラム教徒に侮辱的ともとれる風刺画を掲載していたシャルリー・エブド社がイスラム教過激派組織に襲撃され、記者や風刺漫画家など12人が殺害された事件。
シャルリー・エブド社はこのように偶像崇拝が禁止されているムスリムの姿を揶揄するような風刺画を掲載していた。この事件の後、表現の自由と宗教への配慮についての論争が起きるようになった。
この2つの事件について共通していることは表現する側が教義や信仰対象の侮辱ととれる表現をしているということである。
果たして自分の書いた文章は宗教団体の教義や信仰対象を侮辱していたのだろうか。自分はあの文章で教義や信仰対象を否定したのではなく、宗教団体が起こした行動を批判しただけである。
よって自分の書いた文章はBANされるべきではなかった、と学校側には強く主張したい。
CASE.3 大阪芸術大学「ゆきゆきて地球神軍」騒動
2018年2月、大阪芸術大学の学生の卒業制作であった幸福の科学についてのドキュメンタリー映画「ゆきゆきて地球神軍」が公開中止となった。
幸福の科学側の意見と批判者側の意見を平等に取り上げた映画であったが、幸福の科学は教団から悪魔と呼ばれている藤倉善郎氏が大悟館を撮影しているシーンがあることを理由に製作者と大学に訴訟予告を行い、映画を公開中止に追い込んだのである。
この映画も自分の文章も教義や信仰対象についての侮辱はしていないはずだ。しかし、このような前例がある以上、メディアや出版社ではない学校が訴訟を恐れるのはある意味当然なのかもしれない。だが、この映画と違い、自分は自分の書いた文章について世間への告知はしていない。宗教団体にこの文章の存在を知られない確率も十分高いはずだ。果たして訴訟をそこまで恐れる必要があったのだろうか?
自分は宗教について評論することを過度に恐れる風潮は危険であると考える。カルト問題は無視できない人権問題に繋がる。また、適当な内容を発信する自称知識人が現れた際に「世間でタブー視されている宗教について語るなんてスゴい!」と自称知識人が世の中から受け入れられてしまうという事態を招いてしまう。
よって、今回の掲載見送りという学校側の判断は間違っている、と考える。
これらのことから、今回の自分の文章への扱いはとても酷いものであると言えるので最後にこの言葉を送らせて頂く。
「くたばれ、クソ先公!ペッ!」